性なるものは、聖なるものか

発端は「避妊具」だった−「紀元会」リンチ死事件
主犯格とみられる窪田康子被告(49)の娘で、教団創設者・松井健介氏(故人)の孫にあたる少女に、「財布に入れておくと、お金がたまるお守り」と避妊具を見せていたことを窪田被告によって暴露された。
避妊具を神聖なお守りに例えたことに会員が激怒したというのだ。二女を囲んで殴るけるの暴行が始まった。

その後の「ごみ袋に30個ほどの避妊具を張りつけた特製のベストをほかの会員に事前に準備させ、二女に着させた」というのが意味不明。
避妊具は大切なものですよ、今の人間生活において。ゴミ袋と同様のもの、という考えから来ているのですかね。

そんなニュースを見たかと思うと、
記者の前で“本番”実演…秋田SEX教団、衝撃ルポ
と「リトル・ペブル同宿会」に今話題が集まっていた。
やはり「性」なるものは「聖」なのか。受精や誕生の神秘に、人は「神」を宿らせるのか。
そう思うのは勝手ですが、「神様からのインスピレーションで『全世界に悪名をはせなさい』と言われた」と言って悪事の限りでは、完全にカルトになるよ。

神聖なるもの、それは人が造りしもの

宗教的シンボルを平然とANIMEに使う日本人の神経!
例えば『ゼルダの伝説 時のオカリナ』にイスラム聖歌が出てきて、それに対してイスラム教徒から抗議があって、任天堂がそこを取り除いた事件がありました。任天堂Wii向けのある格闘ゲーム、それから同機種向けの近日発売予定のゲームでも似たような騒ぎがありました。(登場人物のひとりが「神は偉大なり」とアラビア語で叫ぶ場面がある)

国と国との文化の違いにあれこれ言えないように、宗教もまた、どの作品でどう使われようと、とやかく言われるものではないのが基本だと思います。

その「シンボル」に神聖なものが宿っているかどうかなど、人によって思いは違うのですから。


そういえば、映画「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」で、鳥居で人が首つりにされている場面があり、神社本庁など神社関係者が抗議し、制作側が映画の予告編やポスターなどを作り直した、という事件もありました。

いわゆる「神聖な鳥居への冒涜」だというのです。

私としては、そうかな?という感じですが、許せない人にはどうにも許せない。

所詮、鳥居も人の造りしもの。そこに何か神聖なるものが宿っているかどうか、それは見る人によって違う。そこに「神」など、本来いない。


そういったことを気にしながら、アニメ作品なり何なり製作するというのは、困難極まりない。
というか、無理。

仏教は「癒し」の宗教ではない

癒やしスポットお寺が人気!?
 浄土真宗本願寺派西本願寺東京別院である築地本願寺で12月15日に行われるのは、日蓮宗をはじめとした各宗派の共同企画「TOKYO BOUZ COLLECTION(東京ボーズコレクション)」。宗派の垣根を越えた初の試みとなる。

 僧衣たちが、それぞれの宗派の僧衣を身にまとってファッションショーを繰り広げる。袈裟や法衣は、宗派によって色や形、模様は多種多様。それらが一堂に会する。

 また、ダンスとラップを組み合わせた法話会、1、2時間ほどで座禅、写経、写仏を行う“プチ修行体験”、永六輔さんらの講話なども開催する予定。浄土真宗には“修行”という概念がないため、日蓮宗の僧侶が取り仕切るが、築地本願寺で修行が行われるのも、従来では考えられないことだそうだ。

この他、話題の「カフェ・ド・シンラン」などあり、築地本願寺は「なんでもあり」の世界になってきました。
かつて歴史の上で激しく闘争した浄土真宗日蓮宗が、ファッションショーで手を結んだ。

おまけに、日蓮宗僧侶が仕切る修行に、遂に場を譲った。
心ある人は、「自殺行為ではないか」と思うかもしれない。

教義伝達では人を集められない、どうにもならない仏教宗派の現状を垣間みるようだ。

これもまあ、「東京」という環境が、そうさせているのかもしれない。

元首相と宗教の関係 一早い指摘だった?

元首相の不安な内面
「心が折れた」と表現した新聞があったが、一国の総理にしては、あまりにも精神が脆弱ではなかろうか。
新興宗教に入信した母親の意見で、閣僚人事を決めていたという話も出てきている。
本当だとすれば、国の命運を握る首相が、精神面では全くひ弱で自信がなく、母親や迷信にすがりついていた事実が浮き彫りになってくる。

親鸞会公式サイトに掲載された、安倍元首相に関するコラムである。
親鸞会は、公明党創価学会批判は好むが、表立って政治そのものの批判は普段は見られないだけに、この切り口は少し驚きであった。

安倍首相と宗教の関係についての詳細は、ここでは紹介しない。
(参考:安倍首相は“宗教オタク” 安倍家三代にわたる宗教好きのDNA(中央ジャーナル)


ただ、今回のことが発覚する前に、かの江川紹子氏が「安倍首相と宗教」の関係について、興味深いことを述べていた。

安倍首相の強気を支えているものは…
 この強気、驚くべき”鈍感力”は、どこから生まれてくるのか……。
 ただの慢心であれば、これだけの歴史的惨敗で少しは落ち込むだろう。ところが、安倍首相は参院選での敗北を受けて、前以上にやる気がみなぎっている感じがする。
 そんな安倍首相の顔を眺めているうちに、「ああいう態度は何度も見たことがある」という既視感を覚えた。
 新興宗教団体、もっと率直に言えばカルトの熱心な信者さんの対応に、そっくりなのだ。

つまり、態度が「カルト信者そのものだ」という指摘だ。
最初、この記事を読んだときは、なんとも乱暴な内容だと思ったものだが、今から考えると、さしずめ当たっていたとも思える。

しかし、やっぱり飛躍しすぎている記事だ。
人の態度でもって、「岸真理教」だと名付けるあたり、この人も「オウム」から抜けきれていないなと、なんだか悲しくなる。


それにしても、

NHKの開票速報に出た太田代表は、冒頭、司会者からの質問を無視して「創価学会の皆さまありがとうございました」と言った。誰はばかることなく、創価学会に支えていただいている公明党を宣言したようなものだ。

この映像、Youtubeに出ていないですかね。
今、国会で公明叩きをしている石井議員に見せてあげるといい。

国会議員の宗教献金

民主・石井氏 公明党と創価学会の関係追及

 石井議員は、公明党の国会議員が「創価学会」池田名誉会長に献金をしているなどと指摘して「政教一致だ」と批判した。しかし、公明党・冬柴国交相はこの献金を否定した。
 石井議員は「政教分離を定めた憲法20条に抵触する問題だ」と指摘し、公明党を離党した福本潤一前議員の国会招致を求めた。公明党創価学会の関係を明らかにしていきたいとの考えで、「必要に応じて池田名誉会長らに国会に来ていただきたい」と強調した。

たまに国会で起きる「公明党創価学会)」叩き。
だれも、いやがらせを恐れてやらない。


宗教票を集める議員は、自民、公明に限らず、多く存在する。
それは、どうでもいい。選挙は、協力してくれる人なら何でも利用するもんだ。

アメリカでの「ビックチャーチ」など、政治世界に完全に宗教が踏み込んでいる。
日本では、そうはいかない。

公明党の存在は構わないが、問題は「政権」を持っていることだ。


ところで、たとえ個人的な「池田大作」への献金であっても、そういった「お布施」や「賽銭」などの「宗教的献金」が批判されるものならば、どの議員もアウトではないのか?

病は治らず暴行で死亡

宗教法人「紀元会」を捜索 暴行死で少女を逮捕 長野
長野県小諸市のすし店経営、奥野元子さん(63)が、宗教法人「紀元会」の会員から集団暴行を受けて死亡した疑いが強まったとして、長野県警は15日、傷害致死の疑いで、同市の紀元会本部などを捜索、同容疑で信者の少女(17)を逮捕した。県警は幹部を含む会員十数人からも事情を聴いており、容疑が固まり次第、逮捕する方針。

宗教の名の下に行われた殺人。
新興の宗教団体が信頼を得られないのは、このような事件が引き起きるからに他ならない。
人の命を奪う教えが「不治の病が治る」と水を売るとは笑止。

しかし、かなり家族の問題も孕んでいて微妙そう。

実験の宗教生活

聖書の教えを全て守って一年間を過ごすと…
神を信じるわけでも、信じていないわけでもないこの人は、単に実験のために一年間旧約聖書に書かれている全ての戒めを(できるかぎり)まもって生活をしたのだそうです。その結果はとても驚くべきものでした。
彼がこうしたライフスタイルの実験をはじめてすぐに気づいたのは、現代社会は「選択」が過剰なまでにあるのに対して、こうした宗教生活はたくさんの戒律があるので最初から「選択」の余地が与えられていないということでした。ようするに選択することそのものからの解放だったわけです。 そうするとすぐにめざましい変化が起こりました

ライフハックを極めれば宗教に近づくのか、それとも宗教に準ずればライフハックになるのか、どちらとも言えそう。

自分の考えを殺して、聖書の通りに生活するという「実験結果」は如何に。


「罪とされる行動がそもそも初めから禁止されているとなると、そもそも人の事を悪く思ったりする思考経路自体が消えていってしまった。」って、悪く言えば「思考停止」?
しかし、「モラル」というものは、やはり「悪を犯そうとする意志を制止する何か」がなければ成り立ちませんから、これも一つのライフハックといえば、ライフハック


「一年も祈っているうちに、何か祈りに尊さや、聖なるものがあるように感じ始めた」
お仏壇もそう。


「白い着物ばかり着ていると、その着物にふさわしく、心が軽くて幸せを感じるようになったそう」
人の気持ちは衣服にも左右される。当然。


このブログの結論は「自分がなりたい人物像があるなら、まるでその人になったフリをすれば、じきにフリが本物になる」なのですが、まさにモチベーションを高める手法であって、それは「信仰」ではない。


これは聖書の例。仏教ではどうなるでしょうか。


親鸞会では「六度万行の実践」といって、仏教で教えられる善行をやかましく言われます。
つまり「他人には親切をしよう、怒ること無く笑顔で接し、善いことは大いに努力をし、悪いことは我慢をし……」云々。
これを真剣に1年間実行すれば、それはそれは大きな、それこそ「めざましい変化」が自分に起きるでしょう。

でも、その「変化」は、親鸞会で言われる「救い」ではない。

「変化」はあくまで救いへの過程、という訳です。