実験の宗教生活
聖書の教えを全て守って一年間を過ごすと…
神を信じるわけでも、信じていないわけでもないこの人は、単に実験のために一年間旧約聖書に書かれている全ての戒めを(できるかぎり)まもって生活をしたのだそうです。その結果はとても驚くべきものでした。
彼がこうしたライフスタイルの実験をはじめてすぐに気づいたのは、現代社会は「選択」が過剰なまでにあるのに対して、こうした宗教生活はたくさんの戒律があるので最初から「選択」の余地が与えられていないということでした。ようするに選択することそのものからの解放だったわけです。 そうするとすぐにめざましい変化が起こりました
ライフハックを極めれば宗教に近づくのか、それとも宗教に準ずればライフハックになるのか、どちらとも言えそう。
自分の考えを殺して、聖書の通りに生活するという「実験結果」は如何に。
「罪とされる行動がそもそも初めから禁止されているとなると、そもそも人の事を悪く思ったりする思考経路自体が消えていってしまった。」って、悪く言えば「思考停止」?
しかし、「モラル」というものは、やはり「悪を犯そうとする意志を制止する何か」がなければ成り立ちませんから、これも一つのライフハックといえば、ライフハック。
「一年も祈っているうちに、何か祈りに尊さや、聖なるものがあるように感じ始めた」
お仏壇もそう。
「白い着物ばかり着ていると、その着物にふさわしく、心が軽くて幸せを感じるようになったそう」
人の気持ちは衣服にも左右される。当然。
このブログの結論は「自分がなりたい人物像があるなら、まるでその人になったフリをすれば、じきにフリが本物になる」なのですが、まさにモチベーションを高める手法であって、それは「信仰」ではない。
これは聖書の例。仏教ではどうなるでしょうか。
親鸞会では「六度万行の実践」といって、仏教で教えられる善行をやかましく言われます。
つまり「他人には親切をしよう、怒ること無く笑顔で接し、善いことは大いに努力をし、悪いことは我慢をし……」云々。
これを真剣に1年間実行すれば、それはそれは大きな、それこそ「めざましい変化」が自分に起きるでしょう。
でも、その「変化」は、親鸞会で言われる「救い」ではない。
「変化」はあくまで救いへの過程、という訳です。